陶磁器と文鳥と作劇塾
作劇塾の塾生です。塾での日々、及びアンティークや陶磁器類、そして文鳥の雑文
塾のあちら側
合評。

ちょこちょことした修正部分を直して、無事に次の章へ行くことへ。

ああ、やっとこさ殺戮が書ける・・・・・・なんて書いて気がつく。やっぱり血塗れが好きね。

「前章のSF場面にアクション場面、T野がしびれ切らして手伝ってくれたようなもんやろ」

らしいですねえ。
『どーしてこう、上手く書けないものかなあ? どけ、俺が手本を見せてやるぜ!』
と、書いたら、私ってばそのままパクっちゃうし。
おまけに
「共同執筆しません? T野さんSF部分、私ホラー部分」
なんて持ちかけて、その安直な提案に愕然とさせるし。

でも、SFとアクション部分は下手でも、書くのは好きなんですよ?

「でもなー、どう読んでもSF無駄なんだよな。全編ホラーならまだしもさ。人喰っている奴の描写だけの方が話面白いし」
「それはそれで、違う話考えていますよ。話に血塗れだけじゃ、書いていても気が重いし、どうせコレ習作」
「プロ目指すための習作じゃねえか。どうせじゃねーだろ」

いやはや、合評のたびに『SFいらねえよ』『いいじゃないですか、書かせて下さいよ』
の争いです。

一回話の設定を変えて、血の涙を流しながらラノベを捨てたので、これ以上はゆずりません! 書きたいから書きますよ!と強気ですが、内心ひやひや。
上手く話が進めば「これでSFがなければなー」と嘆かれ、上手く運ばないと「SFが話をこじらせてるし」と指摘され。

でも自分でも分かるのは、私は確かに殺戮場面の方が書いていて『乗る』
だって、実際に人を殺すなんて出来ないし、出来ない分どこまでも想像の幅があるのです。

まあ、良かったじゃん。
今まで見えていなかった、得手不得手がはっきり分かってさ。

さあ、それでもどう先生を丸めこんでこの話を完成させるか。

先生は立派なプロですが、こっちも一応、それなりに社会人経験を積んで交渉術を身に付けた大人。
ふふふ、どう戦うか。

焼酎飲みながら、亭主が一言。

「面白きゃ良いんやろ」

部外者の一言は非常にシンプルだ。















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疑問

何せ、課題を落とすわけにはいきません。
合評から課題提出までの一週間は、ほとんど映画も見ないし本も読まない。世間様の動きは、仕事の合間にパソコンでチェック。
・・・・・・そういう訳で、多少世の中とずれのあることは仕方が無い。

その中で「へえ」とつぶやいた記事が一つ二つ。
今年は初っ端から飛ばしていますね。ワイドショー的なものなら、不倫が二件に覚せい剤が二件ときたもんだ。

その中で、目を引いたのがあの連続神戸連続児童殺傷事件の犯人「少年A」を記事にした、『週刊文春』の突撃取材です。

実は「絶歌」は読んでいません。「少年Aこの子を生んで」は読んだ記憶はあるのだけど、何せ15年前程前あまり記憶に残っていない。なぜ、我が子がこんな事件を起こしたのか、ただ悩み苦しむ親の手記には、私の期待していた「答え」が無かったからでしょう。

そして、「絶歌」が出るまでに、連続神戸児童殺傷事件の犯人が精神科医やカウンセラーたちによって、どんな矯正プログラムを受けているかなど、新聞や本で目にする機会があったのですが。

そして、彼が医療少年院に移され、「育てなおし」という治療プログラムを受けて、その経過が順調とされて仮退院し、社会復帰に踏み出したという事ですけど。

・・・・・・その「育てなおし」とは。
「母親役のカウンセラーと、父親役のカウンセラーが疑似家族を形成して、患者を赤ん坊の状態から育てなおす」
というものらしい。ざっくり言うと。

すみません。ここで疑問です。

「育てなおし」・・・・・・相手は、当時はすでに10代の少年ですよね? しかも人も動物も傷つけて殺した、人の持つ『禁忌感』を乗り越えてしまった人間です。生まれてすぐ、全くまっさらの赤ん坊とは違う。
まあ、その疑似家族芝居に参加できる社会性はできたという話で。

そして「絶歌」を出版した。その時点で、被害者感情を抜きにしたやり方で、社会に自分の存在をアピールしています。
私は事件を起こした時に出した犯行声明を思い出しましたけどね。

罪は償った相手に、文春はやり過ぎだという声がありました。
元犯罪者の社会復帰を妨げるではないかとか。

しかし、その声の中に、我が子を殺された事のある犯罪被害者の声は入っているのか?
刑務所に入り、年月さえ過ごせば、罪を償なったことになるのか?

私が思ったのは、その矯正プログラムによって、彼は人の立場や心を考える想像力という社会性を身に付けられたのかという点です。だって、あれだけの事件を起こし、なおかつ出所後に出版し、ネットに出てくれば、そりゃマスコミも動くでしょ。
自分から火をつけたのです。それに対し、自分の身の危険に怯えるのは間違っています。結局、いまだに考えなしの子供じゃないか。

未成年犯罪の再犯率は約半分と聞いた事があります。

半分は「また同じ過ちを犯す」と見るのか「半分は真人間に更生する」と見るか。

はっきり言う。
この元少年Aのやったことは、その半分の「更生しようとしている少年少女」と、それを手助けしている大人たちの努力に泥を塗った行為です。

文春の取材が行き過ぎだろうと何だろうと、そこだけは変わらん。

小池一夫先生の意見に全く大賛成です。

ただ、芝居だの何だのと言ってはいますが、私が育てなおしという矯正プログラムについて、よく分かっていないのも事実です。
申し訳ありません。

ちゃんと調べます。













塾のこっち側
合評。

二ヶ月間止まっていた章を加筆訂正、そしてようやく次の章へ。

高校生軍人たちから下水道からまんまと逃げおおせた感染者ヤンキー、さて、今彼はどちらに?

こもって書いちゃロクな事ないよ、人と会って話をしろ、映画見ろよ外に出ろよと散々塾で教えられています。
でないと、頭の中の想像力が自分の経験、つまりは『学生時代』とかそんなものしか書けないではないか。それなら想像上の産物、ファンタジーって言うけど、あの舞台装置を作るためには、歴史や宗教、政治とか、かなりの知識や教養がいるんだぞ、という事でした。

いやー、今回の話は、その教えと散歩って言う趣味が役立った。

姿をくらますのに、ちょうどいい場所思い出した! あそこは良いぞ! しかも上手くいけば人間食い放題!
そして『96時間』冒頭。主人公の娘が誘拐組織から逃れるために、ホテルの中で隠れるところ。
あの隠れ場所は、基本の基本。しかも最終的には必ず見つかる場所ですが、それまでのサスペンス感抜群。

「自分、人喰うところは上手いな」
「有難うございます。ところで先生、その褒め言葉は正気ですか?」

自分不信も極まれば、人様であっても・・・・・・師ですら攻撃するのは仕方なしといえましょう。

「ですけど、前回のアクションシーンと違って、今回の章は随分ねっちりですね。アクションの2倍は人を喰うのにページ数かけてますよ」
「だって、これ、本当はホラー小説だもん」
「そういえばそうでしたね」
おい、Oさん。そんなこと言っていると、私ゃ君の作品をファンタジーじゃなくて宗教でバトル小説というぞ。

さて、そういう事で、感染者ヤンキーは隠れております。食っております。
しかも、徐々に体が腐った箇所は広がり、食う量も倍に増えている。
ヤマを作らないとなあ。高校生軍人たちとは、ほとんど顔を合わせていないし、ご対面もさせないとねえ。

ああそうだ。ウィルス感染のキャリアの女子高生ヒロイン。感染者ヤンキーが知能持って人喰っているもんだから、彼女もヤバいって軍から身柄拘束されたんだっけ。おかげで男子高生軍人、任務とと私情に挟まれてちょっとアンニュイ。
あ、いけない、そんな女子高生をモルモット扱いしている悪そうな学者の存在を思い出したぞ、しかも現在は主人公たちの味方として描写している女医の裏設定、そろそろ使わないと。
おお、そうそう。感染者ヤンキーをつけ狙う暴走族の皆さんもいたんだっけ。

『話はシンプルにしろ』

この教えを思い出しました。
・・・・・・本当ですねえ。
さて、どう書こうかな。











恋愛について考える
金曜日。
塾が終わって恒例の飲み会、T野さんが『私の合評課題 T野版』第2弾を取り出してきまして。
「見ますか?」

見ますかも何も、見せるために書いて、しかもこの場に持って来たんだろうよ。書いておいて見せないんぞ、かえって酷いぞってっていうか、キミ、実は私の嫉妬風船爆弾によって、自分の手を汚さずに、福知山を火の海にしたいと思っているんじゃないでしょうね。

・・・・・・チッ

飲み会中、それを読みつつ、酒を飲みながら、舌打ちする事約20回ほど。
なんだよ。本家より的確な描写で、軍人の作戦行動の動きや、任務に挑む人間の心理を上手く書きやがって。

「あのさあ、さっきから原稿読みつつ、T野を殺しそうな目で見ているけど、彼はまだプロじゃないからな」
「分かってますよ先生・・・・・・あーT野さん、この原稿もらいますからね」
「いいですよ」

どうせパクって次の合評に出すんだろと言っている気がする。ハイ、その通りです。堕落と言いたくばそうですなあ。そのせいか、最近、彼の笑顔が私の堕落を誘う下級悪魔に見える。

・・・・・・さて、そんな彼の出したネトラジテーマ『恋愛について』

現代ニッポン、恋愛しなくても良いという若者が増えている、という事ですが。
実はたまに考えるのです。
『恋愛って、いうほど崇高で、必要不可欠か?』

恋愛がここまでもてはやされ、恋愛しない奴はヤバいとか、大丈夫かなど言われていても、私的に言えば、恋愛は人生のデザートではあっても主食ではない。

商業的に、文化的に結びついているからこそ、ここまで特別視されるのではなかろうかと。

だって、実際の恋愛を見てみると、美しいどころか、もうドロドロ、場合によってはヘドロまみれ、エゴと虚飾の肥溜で、人間不信と裏切りの廃棄場ですわ。
それを見ていると、恋愛至上主義者たちの唱える「恋は素晴らしい」が薄っぺらに聞こえる。

そんなの見ていると、あのように、お互いがお互いを想い、自己犠牲で純粋かつ美しい恋愛って、フィクションの中。いわば、誰かの脳内で作り上げた妄想の世界でしかないって思います。

まあ、確かに仰る通り。人の心を最も動かすのは愛情であり、人の心を描くのが作品。なので、テーマに愛情がなければ、作品は作品として成り立たない。

別に、恋愛とは、しないからといって焦る程に特別でも崇高でもなく、恋心というのは「心のお仕事の内の一つ」
そう思っていますが、いかがなものでしょう。

いいじゃん。大抵、好きになる相手は、恋の焦りを忘れた頃にやってくる。